この記事でわかること
- 自分にはできない、と認めるところから始まる任せ方
- 他人を自分の分身と見る「他己」という考え方
- 任せることは手放すことではなく、自分の範囲が広がるという見方
前回は、次の玉手箱の話を書きました。上には上があると思っていれば、傲慢にならない、という話です。
その老師が、自分のことを「頭悪いから」と言ったことがあります。坐禅会で老師は、そこから他己(たこ)という言葉を説明していました。
以前、自分の範囲は五尺の体ではない、という老師の話も書きました。その範囲に入ってくるのが、他人の力です。任せる相手を分身と見れば、任せることは手放すことではなく、自分の範囲が広がることになります。
では、他人はどうすれば自分の分身になるのか。
「僕なんかさ、頭悪いからさ」
老師は、自分と他人の境目がなくなった世界を説明する中で、こう話しています。
世界人類は全部自分だってことなんですね。
それはどうしてかというとね、例えばよ、例えば僕なんかさ、あの、あれですよ、頭悪いからさ……
頭がよく、弁舌の立つ人を見て、そういう人になりたいと思う。けれども、なれない。老師はそう話したうえで、でも、そういう人がいるのだから、仲良くして、力を借りればいい、と続けています。
修行を重ねてきた老師が、自分の足りないところを先に出しています。この話は、そこから始まります。
「その人は僕なんですね」
老師は、自分の体験を例に挙げます。
僕はドイツ語できないから英語はいいんだけど、ドイツ語はダメ。
そうするとね、ドイツ語のベラベラ喋る人をね、通訳してくれるんですよ。ということは、〔その方〕は僕なんですね。僕と同じことをやってくれているんですよ。
自分はドイツ語ができない。そこへ、ドイツ語の上手な人が通訳に入ってくれる。そのとき、その人は自分と同じことをやってくれている。だから、その人は自分だ、と老師は言います。
そして、こう続けます。
自分というそのガードがなくなると、他人が他人と思っていたのが自分の分身になってくれるということだろうと思うんですね。
自分というガードがなくなると、他人が、自分の分身になる。
図1 ガードがあるとき、ないとき——境目がなくなると、他人が自分の分身になる
「他は俺だということ」
老師は、この話を他己という言葉につなげています。
他己っていうのはね、面白い言葉でね、あの、我々こっちに自分がいるから、他人自他とやるんですよ。他己ってのは他、他なんだけど、他は俺だということなんですよ。
他己とは、ここでは、他人でありながら自分でもある存在を指す言葉です。
ふつう私たちは、自分と他人を分けて考えます。老師は、他人と思っていたものが、実は自分だった、ということをこの一語で表している、と説明しています。
「僕だけの体だったら使い物になんない」
では、他己は、日々の中でどう現れるのか。老師はこう話しています。
全部自分だけど、じゃあ本当に僕だけの体だったら使い物になんない。
この人はね、こういう能力がある。それを発揮してくれる。
自分一人の体では、できることは限られている。けれども、あの人にはこういう力がある。その人がそれを発揮してくれる。老師は、その姿をこうまとめています。
他人といっても自分が自分を使っていると言ってもいいと思うんですね。それが他己なの。
私の場合——経理・財務と、任せること
私自身にはできず、代わりにやってくれている人がいる分野を一つ挙げると、経理・財務です。
自分にできないことを人に任せるのは、私の得意なほうです。
老師の言い方を借りれば、経理・財務をやってくれている人は、私にできないことを、私の代わりにやってくれている。その人は、私の分身だということになります。私はそう読みました。
図2 任せることを、二つの見方で見る——手放すのではなく、自分の範囲が広がる
組織に置き換えると
組織づくりでは、「任せる」ことがよく話題になります。任せ方の手順、権限の渡し方、確認の頻度。
どれも大事です。けれども、老師の話を借りると、その手前にもう一つあります。任せる相手を、自分の外の人と見るか、自分の分身と見るか。
外の人と見れば、任せることは自分の仕事を手放すことになります。分身と見れば、任せることは自分の範囲が広がることになります。
その出発点は、老師が先に言っていたことにあります。自分にはできない、と認めること。「頭悪いから」と言えるところから、他己は始まるのだと私は考えます。
「人を道具にせよ」という話ではありません
ここには、誤解されやすい点が二つあります。
一つ目。人を道具のように使え、という話ではありません。老師は「利用すればいい」という言い方もしています。けれども、その前に「仲良くすれば」と言っています。そして、老師の「使う」は、「自分が自分を使っている」という意味です。相手を自分の外の道具として見る話ではありません。
二つ目。自分は何もしなくていい、という話でもありません。分身になってくれた人の仕事も、自分の範囲に入っています。任せたから、あとは知らない、とはなりません。一人で抱え込まないことと、手を離すことは別だと私は読みました。
まとめ——他人の力を、自分の範囲に入れる
- 自分にはできない、と認める。老師は「頭悪いから」と、先に言っている
- 自分というガードがなくなると、他人が分身になる。通訳してくれる人は、自分である
- 任せることは、手放すことではない。自分の範囲が、他人の力の分だけ広がる
心を高める、経営を伸ばす。他人の力を自分の範囲に入れることは、心の側の話であり、組織の側の話でもあると、この言葉を読み直して思いました。
「本当はできる」と言っても信じない相手に、どう入ればいいのか。次回は、同じ日の坐禅会で老師が紹介した、もう一つのたとえ話です。
明日、一つだけやってみる
自分にはできず、代わりにやってくれている人がいる仕事を一つ書き出してみてください。その人を外の人ではなく、自分の範囲を広げてくれる分身として見直してください。
よくある質問
Q. 「他己」とは、どういう意味ですか。
老師の説明では、他人なんだけれども、他人は自分だということを表す言葉です。他人と思っていたものが、実は自分だった、という見方です。
Q. 任せるのが苦手な人は、どう考えればいいですか。
老師の話では、自分というガードがなくなると、他人が分身になるとされています。まず、自分にできないことを認めるところからだと私は読みました。
Q. 宗教的な話として受け取るべきですか。
老師は悟りの世界の説明としてこの話をしていますが、この記事が借りたのは、他人の力を、自分の範囲に入れるという見方です。用語を外しても、見方は残ります。
出典
- 坐禅会(2018年6月)の録音記録。「世界人類は全部自分だってことなんですね」「例えば僕なんかさ……頭悪いからさ」「僕はドイツ語できないから英語はいいんだけど、ドイツ語はダメ」「ということは、〔その方〕は僕なんですね。僕と同じことをやってくれているんですよ」「自分というそのガードがなくなると……自分の分身になってくれる」は老師の発言(録音の43:18〜44:39前後)
- 同じ録音の「他己っていうのはね、面白い言葉でね……他は俺だということなんですよ」「本当に僕だけの体だったら使い物になんない」「この人はね、こういう能力がある。それを発揮してくれる」「自分が自分を使っていると言ってもいいと思うんですね。それが他己なの」は老師の発言(46:00〜47:15前後)。書籍の朗読の合間の、老師自身の説明の部分
- 話者は、会に出席していた筆者が確認した(2026年9月)
- 「頭がよく、弁舌の立つ人になりたいと思ってもなれない。でも、そういう人がいるのだから、仲良くして、力を借りればいい」は、老師の発言(43:30〜43:58前後。原文は「仲良くすりゃあね、利用すりゃいいんですよね」)を筆者が要約したもの
- 話の中に出てくる方のお名前は〔その方〕とした。文字起こしの「通用」は「通訳」、「他子」は「他己」と、前後の文脈から判断して表記した
- 引用は録音の文字起こしから。言いよどみや、意味が取れない部分は「……」で省いた
- 「他己」の読み方と説明は、老師の説明をもとにした筆者の補足です
- 経理・財務、任せるのは得意なほう、という記述は筆者自身のものです
- 本文中に坐禅会の関係者・老師・世話人の方のお名前は記載していません
- 本記事は坐禅会の録音のみを素材としており、朗読された書籍の本文は引用していません
- 本記事は特定の宗教を評価・推奨するものではありません
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