この記事でわかること
- 不可抗力に見える障害も「魔」と呼び、退治できるものとして扱う理由
- 成果が出はじめたときに起きる、得意・珍重・やめる理屈の三つ
- 魔境が出るのは進歩の証拠であり、留まれば落とし穴になる話
前回は、本物の指導者をどう見分けるかという話を書きました。
では、その師について修行を始めたあとに、何が待っているのか。『禅の正門』第三章の第六節は、魔境というものにまるごと一節を割いています。
坐禅の話としてだけ読むにはもったいない、と私は思いました。
少し成果が出はじめたときに何が起きるか。その構造が、驚くほど正確に書かれています。得意になる。珍しいものを有り難がる。やめる理屈を考える。そして本は、魔境が出るのは進んでいる証拠だ、とも言います。
進んでいる証拠なら、どこに落とし穴があるのか。
魔境とは、修行の邪魔になる一切のこと
魔境とは、悪魔の仕業とでも思われるような現象や境界のことをいう、と本は書きます。
そして、修行の実際という立場からは、修行の邪魔になる一切の障害を指す、と範囲を広げます。
障害は二つに分けられます。内魔と外魔です。
内魔のほうは、こう説明されています。
「いろいろな理屈を考えて坐禅をやめようとしたり」
「いろいろ珍しい現象や境界があらわれると、何かそこに深い意味があるかのように思ってそれを珍重したり、執着したり、得意になったりして修行の本筋を踏みはずし」
やめる理屈を考える。珍しいものを有り難がる。得意になる。
この三つを読んだだけで、自分の心当たりが二つか三つ浮かびました。
不可抗力も、外魔と呼ぶ
外魔のほうが、さらに手厳しい。
本は具体例を挙げます。自分が病気になる。家族に病人ができて坐る時間がなくなる。勤務先の都合で修行を続けるのが難しくなる——。
そして、こう言い切ります。
「常識的には不可抗力と思われるような外的障碍も、仏道修行の立場からは、やはり外魔と称されるのである」
ここで私は、ページから顔を上げました。
不可抗力すら、魔と呼ぶ。
つまり、言い訳の余地を一つも残していないのです。事情があるのは分かる。けれども、事情があったから続かなかった、という説明を受け付けない。
厳しすぎるように聞こえます。けれども、少し考えると筋が通っています。
事情のせいにした瞬間、その人は打つ手をなくします。相手が不可抗力なら、こちらにできることは何もないからです。
魔と呼ぶのは、退治できるものとして扱うためなのだと思いました。
実際、本が挙げる対処法は精神論でした。大勇猛心を奮い起こす。三宝を信じ、正師の教えを信じ、不退転の心で精進する。そうすれば、いかなる魔境も障害にはならない、と。
図1 内魔と外魔——邪魔になるものは、すべて魔と呼ぶ
実際に、何が見えるのか
本は、坐禅中に実際に現れるものを具体的に並べます。ここは読み物としても面白い。
目の前が真っ暗になる。逆に雪のように真っ白になる。美しい色彩の模様が現れる。畳の目が波立つように動く。襖の絵が浮き出して動きだす。板戸の節穴が猛獣の姿に見える。仏様が現れて頭をなでてくれる——。
耳に現れることもあります。どこからともなく尺八の音が聞こえて止まらない。突然、足元で爆発物が破裂したように感じる。
鼻に現れて、時ならぬ異香が匂うこともある。
本は、これらを一つ残らず病気現象の側に置きます。
瑩山禅師の『坐禅用心記』を引いて、身体に現れる異常な感じは呼吸が整っていないため、心に現れる異常な相は念と息が調っていないため、と説明します。
一見すると神秘的な霊能力に思えるようなことも、心と呼吸の調和しないところから起こる現象である——。
身も蓋もない説明です。それでも、私はここを読んで安心しました。
神秘を神秘のまま扱わない。そういう本だと分かったからです。
正体は、自分の心の影法師
では、魔境の実体は何なのか。本の答えは一言です。
「それを問題にしてかかわり合っていると修行の邪魔になるが、それを無視して取り合わなければ何でもないものだということに尽きる」
そして、夢にたとえます。
「魔境はいろいろの点で夢に似ている。夢には実体というものがない」
猛獣が現れて頭から噛みつくように感じても、事実は何も起きていない。逆に、どんなに有り難そうなものが現れても、それで幸運が舞い込むわけでも、特別の祝福を受けるわけでもない。
「全く夢と同じで、客観的には何もなく、ことごとく自分の心の影法師である」
自分の心の影法師。いい言葉だと思いました。
半熟のときに、出る
この節で一番面白いのは、本が夢との類似をもう一つ挙げるところです。
夢は、眠りに入ろうとする段階では見ない。熟睡しているときも見ない。半分眠りかけた状態のときに見る——。
坐禅も同じだと言うのです。
意識がまだ散らかっている間は、魔境は現れない。本当に入定してしまえば、これもまた魔境はない。
「丁度、坐禅が半熟状態の時に、魔境が現われるのである」
そして、結論が来ます。
「したがって、魔境が現われるようになったら、禅定力が次第に進んできたことを証明するものであると心得て、ますます自己に鞭打って坐禅に精進しなければならない」
魔境が出るのは、進んでいる証拠である。
これは、私にはちょっとした逆転でした。
幻を見るのは、まだ未熟だからだと思っていたのです。そうではなく、何も起きないところから一段進んだから起きるのだ、と本は言います。
そのうえで、宝のある場所は近い、と続けます。
図2 魔境は、半熟のときに出る——出ることが進歩の証拠であり、留まることが落とし穴
対処法は、相手にしないこと
では、どうするか。本の指示は徹底しています。
何が見えても、何が聞こえても、どんな現象が現れても、一切邪魔にせず、相手にせず、ただ一心に、数息なら数息に成り切って進めばよい——。
無視するのではなく、相手にしない。この違いは微妙ですが、大きいと思います。無視しようと力むこと自体が、すでに相手にしているからです。
本には、原田祖岳老師の『参禅の秘訣』から引いた実例も載っています。接心の最中に如来様と大勢のお弟子が現れて読経を始め、その声が耳について離れず、とうとう十二月の雪の中で裸になって水槽に飛び込んだ人の話です。
それでも声は消えず、五分ほど冷水に耐えて、やっと消えたと書かれています。
相手にしないというのは、そのくらい難しいことなのだとも読めます。
成果が出はじめたときに、幻は出る
私は基幹システムの導入を支援する仕事をしています。ERPと呼ばれる、会社の業務を一つの仕組みに載せる種類のものです。
導入の途中で、必ず同じ局面が来ます。
最初の数字が、少し良くなるときです。
月次の締めが二日早まった。在庫の数が合うようになった。それまで見えなかったものが見えはじめる。
この瞬間に、社内の空気が変わります。この節が書いている三つが、そのまま起きるのです。
得意になる。まだ一部の数字が動いただけなのに、変革は成功したと語りはじめる人が出ます。
珍しいものを有り難がる。新しい機能や新しい技術が目に入り、本筋でないところに時間が吸われはじめます。
やめる理屈を考える。逆に、ここまで来たからもう十分ではないか、という声も出ます。
そして外魔のほうも、そっくり同じです。担当者が異動になった。繁忙期で手が回らない。どれも本当のことで、こちらに責任はありません。
けれども本の言い方を借りれば、それも魔と呼ぶべきものになります。
不可抗力だと認めた瞬間、打つ手がなくなる。だから、退治できるものとして扱う。
いちばん効いたのは、順番のほうでした。
幻が出るのは、進んでいる証拠である。
少し良くなったときに社内が浮き足立つのは、失敗の兆候ではありません。何も起きなかった段階を、一つ越えたから起きている。
だから、浮き足立ったこと自体を責める必要はありません。ただ、そこで止まってはいけない。
まとめ——喜んでよい。ただし留まらない
- 不可抗力に見えるものも、外魔と呼ぶ。事情のせいにした瞬間、打つ手がなくなるからです
- 魔境の正体は、自分の心の影法師である。有り難そうに見えても、それで何かが良くなるわけではありません
- 魔境が出るのは、進んできた証拠である。出たことを喜んでよい。ただし、そこに留まってはいけません
私はこの節を読んでから、成果が出はじめた現場を見る目が変わりました。
浮き足立ちは、進歩とセットで来る。だから驚かないし、責めもしない。ただ、次に進む用意だけはしておく。
心を高める、経営を伸ばす。その途中で見える景色は、たいてい自分の心の影法師なのだと思います。
では、どこまで進んだのかは、どう測ればよいのか。次回は、同じ章の第四節にある悟りの深浅の話です。
明日、一つだけやってみる
少し成果が出はじめた取り組みを一つ選んでください。そこに、得意になる・珍しいものを有り難がる・やめる理屈を考える、の三つが出ていないか確かめてみてください。
よくある質問
Q. 魔境は、誰にでも現れるのですか。
本によれば、接心などで集中して坐ると、三日目か四日目くらいから現れる人が多いそうです。まれにほとんど経験しない人もいるが、多少は誰にでもある、という書き方です。
一方で、自宅で一日一、二時間ゆったり坐っている程度では現れない、とも書かれています。
Q. 有り難い現象が見えたら、良いことがあるのではないですか。
本ははっきり否定しています。どんなに有り難そうな現象が現れても、それによって幸運が舞い込むわけでも、特別の祝福を受けるわけでもない、と。
すべて自分の心の影法師であって、客観的には何もない、という立場です。
Q. 仕事でも同じことが言えますか。
私はそう読みました。特に、不可抗力を魔と呼ぶという扱い方です。
事情は本当にあるのだけれど、事情のせいにして終わると、こちらにできることが一つもなくなります。退治できるものとして名前を付けておく、という知恵だと受け取りました。
出典
- 山田耕雲『新版 禅の正門』(春秋社)第三章第六節「魔境」。本文204〜210ページ
- 瑩山禅師『坐禅用心記』の引用、および原田祖岳老師『参禅の秘訣』の実例は、同書が引いて示しているもの
- 引用はすべて、同書のスキャン原本の該当ページ画像で字句を確認した(本文205・208・209ページ)
- 本文でお名前を記したのは、同書の著者、瑩山禅師、原田祖岳老師のみです。坐禅会の関係者のお名前は記載していません
- 本記事は書籍のみを素材としており、坐禅会の録音は使用していません
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