この記事でわかること
- 段階の差は本質の差ではなく、汚れの厚みの差だという見方
- 頭を探して走り回る話に見る、外に答えを探しに行く構図
- 外を探すことを無駄にしない、帰ってからの自社の棚卸し
前回は、二つの流儀がどちらも同じ場所を目指している、という話を書きました。
では、その同じ場所はどこにあるのか。
『禅の正門』第三章の第五節が、そこを扱います。題は因果一如。
難しそうな言葉ですが、中身はすでに持っているものを、外に探しに行く話でした。段階の差は、本質の差ではない。汚れの厚みの差でしかない、と本は言います。
では、外を探し回るのは無駄なのか。
原因と結果が、一つである
本の書き出しは、白隠禅師の『坐禅和讃』です。
「因果一如の門ひらけ、無二無三の道なほし」
本はまず、言葉の範囲を限ります。ここで言う因果は、善いことをすれば善い結果が来るという一般の因果応報ではない。坐禅修行の上に限った、悟りの因果である、と。
読み替えるなら、取り組みそのものの中で原因と結果がどうつながるかの話でした。
因果一如とは何か。原因と結果が二つあるのではなく、原因と結果は一つだということです。
修行の話に置き換えると、こうなります。今日一日の修行は明日の結果の原因であり、明日の結果がまた原因となって翌日の結果を生む。一日やれば一日だけの結果、一年やれば一年だけの結果を必ず得る。
ここまでは普通の積み上げの話です。ところが本は、そこに一段重ねます。
各段階の坐禅も、中身そのものはそれぞれまったく同じである、と。
本人はまるで気づいていないが、初日の坐禅も四十年目の坐禅も、中身は同じものを体現している。これを階級の無階級、無階級の階級という——。
水晶の玉と、ゴミの厚さ
分かりにくいところに、本はたとえを置きます。
私たちの本質を、透明な大きな水晶の玉だとする。その表面が、真っ黒で堅く厚い塵埃に覆われている。
その塵埃を少しずつこすり落としていくのが、日々の坐禅である。塵埃が払い清められて透明な玉がまる出しになった時が、到達点である——。
私たちの本質は、終始一貫して水晶の玉である。汚れている間も、玉は玉のままです。
だから本はこう書きます。
「差別と言い、階級というのは要するにゴミの厚さの程度にすぎない」
段階の差は、本質の差ではない。汚れの厚みの差でしかない。
図1 差は本質ではなく、汚れの厚み
初日の坐禅と、四十年目の坐禅
本は、さらに先まで書きます。
初心の人の坐禅も、二、三年続けている人の坐禅も、三十年四十年坐り抜いた人の坐禅も——
「坐禅の中身に至っては寸毫の変りもなく」
道元禅師の言葉も引かれます。
「初心の弁道すなわち本証の全体なり」
弁道とは坐禅のことです。初心者の坐禅が、そのまま完成形の全体である、と。
初心者を励ますための方便ではありません。段階の差はゴミの厚みでしかない、という同じ論理から出てきた結論でした。
頭を探して走り回った人
本は続けて、有名なたとえ話を引きます。『首楞厳経』に出てくる演若達多の話です。
昔、ある町に演若達多という人がいました。毎朝、鏡に映る自分の顔を眺めて楽しんでいた。
ところがある朝、鏡をのぞくと顔が映っていない。
驚いた本人は悪魔の仕業だと思い込み、自分の頭を探して町中を狂ったように走り回った——。
本の解説はこうです。私たちは本来、絶対の価値の持ち主であるにもかかわらず、それを知らずに、外に向かって探し回る愚を続けている、と。
そして、この一行が置かれます。
「何ぞ知らん宝所近きにあり。真理は手許にあるのである」
宝は近くにある。同じ言葉は、前に書いた三大要件の節にも出てきました。
図2 演若達多の頭探し——たとえ話の対応表
それでも、探すことは無駄ではない
では、探し回るのは全部無駄なのか。
本は、そこをはっきり否定します。
「この探すということが、取りも直さず真の自己——真の事実——に目覚める前兆なのである」
初めはむちゃくちゃに探し回るしかない。方向の見当がつき、正しい方法が分かるまでには、無駄骨と思われる苦労も重ねなければならない、と。
それでも、探す心が起きたこと自体が、一歩を踏み出したことになる——。
たとえ話の続きも面白い。走り回って手がつけられない演若達多を、友人たちが柱にふんじばった。これが坐禅で身体を止めることに当たる。
身体は止まっても心の騒ぎは治まらない。その騒ぐ心を縛る方法が、数息観であり、随息観であり、只管打坐である——。
気づくきっかけに決まった型はない、とも書かれています。明けの明星を見た人、桃の花を見た人、竹に石の当たる音を聞いた人、石につまずいて足の爪をはがした人——。
きっかけは選べない。用意できるのは、坐り続けることだけだと読みました。
見つけたあとも、振り回さない
最後に、本はもう一段釘を刺します。
頭があったと気づいた時の喜びは筆舌に尽くしがたい。人によっては大騒ぎをする。
けれども、と本は続けます。
「見性した! 悟った! とこれを振り回し、」
「やたらに自分の体験談などを吹聴する間は、まだまだ立派な病人で、真の無事の人とは言えない」
見つけたあとに騒いでいるうちは、まだ治っていない。前に書いた悟りを消すという話と、同じところに着きました。
「うちには何もない」と言う会社
私は基幹システムの導入を支援する仕事をしています。
この仕事で、いちばんよく聞く言葉があります。うちには何もない。
他社の事例を見せてほしい。先進企業のやり方を知りたい。外に答えを探しに行く姿勢です。
ところが実際に業務を追いかけると、その会社なりの工夫が必ず出てきます。属人的で、文書になっていなくて、本人たちが価値だと思っていないだけです。
演若達多の話を読んで、この構図だと思いました。頭は肩の上に付いている。
ただし、本が探すことを否定しなかったところも大事だと思いました。外を見に行くから、自分のところの形が分かる。無駄骨は前兆である、という読み方です。
だから他社事例を見に行くのは止めません。帰ってきたあとに、自社の棚卸しをする。順番をそう決めました。
まとめ——探しているものは、たいてい手許にある
- 段階の差は、本質の差ではない。ゴミの厚みの差でしかありません
- 初日の坐禅も、四十年目の坐禅も、中身は同じ。初心の弁道がそのまま全体です
- 探すことは無駄ではない。ただし、探しているものは手許にあります
心を高める、経営を伸ばす。高めるというより、積もったものを落としていくことなのだと読みました。
では、何を前提に置いて学ぶか。次回は同じ章の第八節、大乗仏教の八大信条の話です。
明日、一つだけやってみる
他社事例を見聞きしたら、自社の業務を一つ追いかけ、文書になっていない工夫を書き出してみてください。探しているものは、たいてい手許にあります。
よくある質問
Q. 初日と四十年目が同じなら、続ける意味は何ですか。
汚れが落ちるかどうかです。本は、玉そのものは終始変わらないが、覆っている塵埃は落ちると書いています。
見えている状態は変わる。見えていないものは変わらない。その二階建てだと読みました。
Q. 「外に探すな」は、学ばなくてよいという意味ですか。
違います。本は、探すことを前兆として積極的に認めています。
無駄骨と思われる苦労も重ねなければならない、と書かれています。探すなではなく、探しているものの在り処を取り違えるなという話です。
Q. 仕事で「うちには何もない」と言われたら、どうしますか。
否定はしないことにしました。何もないと感じている実感は事実だからです。
ただ、外を見に行く前後に、自社の棚卸しを一度挟むようにしています。見比べる相手がないと、自分の形は見えないと思うからです。
出典
- 山田耕雲『新版 禅の正門』(春秋社)第三章第五節「因果一如」。本文196〜203ページ
- 「因果一如の門ひらけ、無二無三の道なほし」「衆生本来仏なり」は、同書が白隠禅師『坐禅和讃』から引いているもの
- 「初心の弁道すなわち本証の全体なり」は、同書が道元禅師の言葉として引いているもの
- 演若達多の話は『首楞厳経』の譬喩として同書が引いているもの。友人が柱に縛る場面以降は、同書が「後人の粉飾的敷衍」と断ったうえで紹介しているもの
- 見性のきっかけの実例(明星・桃花・撃竹・石につまずく)は、同書が挙げているもの
- 引用はすべて、同書のスキャン原本の該当ページ画像で字句を確認した(本文196・197・198・199・200・201ページ)
- 本文でお名前を記したのは白隠禅師・道元禅師・演若達多のみです。坐禅会の関係者のお名前は記載していません
- 本記事は書籍のみを素材としており、坐禅会の録音は使用していません
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