この記事でわかること
- 坐禅を始めた動機は、あとから変わっていくという話
- 腑に落ちる場所は机の上ではなく、仕事の現場にあること
- 「願ったり叶ったり」が傲慢の逆である理由
前回は、老師が一度坐禅をやめて家に帰り、一語の楔で戻ってきた話を書きました。
この対談の聞き手は、僧侶です。この方の出発点もまた、格好のつくものではありませんでした。
一人になりたくて始めた坐禅が、やがて知識を体験に変えていった。動機は、あとから変わります。では、何が変えたのか。
仏教が嫌いな理由を探しに、図書館へ
聞き手は、こう語っています。
僧侶になるのが嫌だった二十代の頃は、仏教が嫌いな理由を探そうと、大学院まで進学して図書館に籠り、とことん仏教について勉強しました。
誌面には、ここに(笑)が入っています。
嫌いな理由を探すために、大学院まで行って調べ尽くす。動機は逆向きですが、量は本物です。
結果はこうでした。
いくら書物を読んでも何も得られないなという実感があって、思い切って学問を捨てました。
一人になりたいがために、坐禅を始めた
次に取り組み始めたのが、坐禅でした。
その動機も、はっきり書かれています。
坐禅を大義名分にすれば、お寺の煩わしい人間関係や雑事から少しは離れられると思ったんです。要は一人になりたいがために坐禅を始めた。
修行のためではありません。逃げ場としての坐禅です。
ところが、そこで思わぬことが起きます。
お堂で一人坐禅を組んでいると、これまで知識として学んできたことが、「あれはこういうことだったのか」と、
そして、こう続きます。
次第に言葉ではなく、自分の体験として感じられるようになっていきました。
老師は、こう受けています。坐禅によって、知識と体験が結びついていったのですね、と。
図1 入口の動機と、出口で起きたことは別だった——動機の純度より、続いたかどうかが効いている
子供たちの姿が、教えと重なった
もう一つ、転機が語られています。
子供たちと接する仕事を引き継ぐことになった。これが大きな学びになった、と。
見性というわけではないですが、何事にも楽しく一所懸命取り組む子供たちの姿が禅の教えと重なり、私の心と体にぐーっと入ってくる感覚になったんです。
本でもなく、坐禅の最中でもなく、引き継いだ仕事の現場でした。
しかも、教えてくれたのは子供たちです。師でも書物でもありません。
教えが入ってくる場所は、こちらが用意した場所とは限らないということだと読みました。用意した場所で待っていると、たぶん取りこぼします。
願ったり叶ったり、ただし傲慢ではなく
そこから、聞き手の受け取り方が変わっていきます。
あらゆる出逢いや出来事が自分を導いてくれている。そうであれば、もういまこの瞬間のすべてが自分の願い通りになっている、願ったり叶ったりの人生じゃないかと思わざるを得なくなっていった。
ここで、本人は留保を置いています。
それは、すべてが自分に味方をしてくれているという傲慢な気持ちでは決してなくて——と続けたうえで、こう言っています。
すべてが他の力によって導かれているならば、自分の存在や能力なんてないじゃないか。自分は他の力で”生かされている”という感覚です。
同じ「願ったり叶ったり」でも、向きが正反対です。
図2 「願ったり叶ったり」の、二つの読み方——誌面は前者を退けている
そして、聞き手が老師の講演会で書き留めた言葉が出てきます。
いま、ここの自分は恩の結晶だ
老師の返しが、いかにも老師でした。
随分立派なことを言っていますね。その頃に戻りたい(笑)。
聞き手は、この言葉からこう思うようになった、と語っています。他の力によって生かされ、またそれを他に返していく、その「他力の循環」こそが世界のあり方なんじゃないかと。
私も、経営力を上げるために坐り始めた
私が坐禅を始めた動機も、格好のつくものではありません。
坐禅をしたら経営力が上がると思った——これが動機でした。
効能を期待して坐りに行ったわけです。一人になりたかった聞き手と、方向は違いますが、自分の都合で始めたという点では同じだと思います。
動機が不純だったことを、いまは気にしていません。誌面を読んで、動機の純度より、続いたかどうかのほうが効いていると分かったからです。
知っていることと、やれること
坐って分かったのは、経営の技ではありませんでした。
知ってることとやれることは違い、実行しなければ何も起きない。
これだけです。本で読めば一行で済む話で、読んで知ってもいました。
それでも、やれていなかったのです。
知っている状態から、やれる状態までの距離。そこに何があるのかは、坐って自分を眺めるまで見えませんでした。
そこにあったのは能力の不足ではなく、やらない理由のほうが、いつも先に出てくるという癖でした。
まだ情報が足りない。いまは時期ではない。もう少し整理してから。どれも本当らしく聞こえるので、自分では言い訳だと気づけません。
坐っていると、その声が順番に出てきます。出てくるところを見ていると、同じ声が毎回同じ順で出ていることに気づきます。
聞き手の「あれはこういうことだったのか」という言い方が、私にはよく分かります。新しいことを知ったのではなく、知っていたことの置き場所が変わったのだと思います。
命をつないでくれたのは、こちらの手柄ではない
「恩の結晶」という言葉について、思い当たることがあります。
会社がつぶれそうだと思ったことがあります。
そのとき、新しい顧客があらわれ、命をつないでくれました。
あとから見れば、うまい手を打ったように整理することもできます。ですが、正直なところ、あの顧客が現れたのは、私の打ち手の結果ではありません。
現れてくれた。それだけです。
自分の存在や能力なんてないじゃないか——聞き手のこの言い方は、大げさではないと思いました。会社が続いている理由を並べていくと、自分の手柄の欄はすぐに尽きます。
だからといって、何もしなくてよいという話ではありません。
現れてくれたときに、受け取れる状態でいたかどうかは、こちらの側の問題です。そこだけは、自分の欄に残ります。
まとめ——動機は不純でよかった
要点は三つです。
- 動機は、あとから変わる。一人になりたくて始めた坐禅が、知識を体験に変えていきました
- 腑に落ちる場所は、机の上ではない。聞き手の場合は、引き継いだ仕事の現場でした
- 「願ったり叶ったり」は、傲慢の逆。すべてに導かれているなら、自分の分は小さくなります
心を高める、経営を伸ばす。
高めるというのは、自分を大きくすることではないようです。自分の欄を小さく数え直すことなのだと、いまは読んでいます。
対談は、ここから終盤に入ります。次回は、正しく修行を積めば誰もがお釈迦様に近づけるという、老師の言葉を読みます。
明日、一つだけやってみる
いま自分がここにいる理由を、一つずつ挙げてみてください。そのうち自分の手柄の欄がどれだけあるかを、正直に数えてみます。
よくある質問
Q. 動機は何でもいい、ということですか。
そうは読めません。
誌面の聞き手も、私も、続けたから変わっています。始めただけでは何も起きていません。
動機の純度は問われないが、続いたかどうかは問われる——という読み方をしています。
Q. 「生かされている」というのは、努力を否定する話ですか。
違うと思います。
聞き手は学問を捨てるまで勉強し、その後も坐り続けています。努力はしています。
そのうえで、成果の取り分を自分に寄せて数えない、という話だと読みました。やることはやる。手柄の欄だけ、正直に数える。
Q. 「恩の結晶」は、感謝しましょうという話ですか。
感謝の勧めというより、事実の確認として書かれていると読みました。
いま自分がここにいる理由を一つずつ挙げていくと、自分の分はごく少ない。だから感謝しなさい、ではなく、数えるとそうなる、という順番です。
出典
- 『致知』2021年8月号「修養の道、限りなし」(特集「積み重ね 積み重ねても また積み重ね」)本文15ページ。対談形式
- 「僧侶になるのが嫌だった二十代の頃は、仏教が嫌いな理由を探そうと、大学院まで進学して図書館に籠り、とことん仏教について勉強しました」「いくら書物を読んでも何も得られないなという実感があって、思い切って学問を捨てました」「坐禅を大義名分にすれば、お寺の煩わしい人間関係や雑事から少しは離れられると思ったんです。要は一人になりたいがために坐禅を始めた」「あれはこういうことだったのか」「何事にも楽しく一所懸命取り組む子供たちの姿が禅の教えと重なり」「願ったり叶ったりの人生じゃないかと思わざるを得なくなっていった」「すべてが自分に味方をしてくれているという傲慢な気持ちでは決してなくて」「自分の存在や能力なんてないじゃないか」「他力の循環」は、いずれも同誌の対談で聞き手が語っているもの
- 「いま、ここの自分は恩の結晶だ」は、聞き手が老師の講演で書き留めた老師の言葉として同誌に載っているもの
- 「随分立派なことを言っていますね。その頃に戻りたい」は、老師の発言として同誌に載っているもの
- 聞き手のお名前、老師の実名、誌面に登場するもう一人の師のお名前、講演会が行われた寺の名は、本記事では記載していません。聞き手の年齢・ご家族・引き継いだ仕事の詳細も記載していません
- 坐禅を始めた動機、実行についての気づき、会社が続いてきた経緯についての記述は、いずれも筆者自身のものです。時期・金額・顧客名は記載していません
- 引用はすべて、同誌のスキャン原本を400dpiで展開して字句を確認した(本文15ページ)
- 本記事は『致知』の対談のみを素材としており、坐禅会の録音および『禅の正門』は使用していません
- 本記事は特定の宗教/宗派を評価するものではありません。記述はすべて同誌に載った発言によります
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