この記事でわかること
- 息は何も要求しない「一番いい先生」だという話
- 「俺の息」は、あとから貼ったラベルという見方
- 人の命は一呼吸の間、一呼吸ごとに新しく始まる意味
前回は、菩薩の話を書きました。人のことが楽しみになっている人を菩薩という、という定義です。
その最後に、次は息の話だと書きました。呼吸ほど素晴らしいものはない、と老師は言います。
この言葉には、以前「今年こそ毎日10分」の記事でも一度だけ触れました。老師はなぜ、そこまで息を言うのか。複数の回の録音を読み直すと、息は何も要求しない先生として語られていました。
「僕は息がね、一番いい先生だと思うんですよ」
ある回の坐禅会で、老師は呼吸の話をこう始めています。
息ってやつはさ、生まれた……時から始まるのな。それで死ぬ寸前までするんですよ。
呼吸っていうのは結局自分といつも一緒なんだよね。それで呼吸の本質をよく見てみると、この個性がないんですよね。
そして、こう続けます。
……一生懸命働いてくれてですね、それで要求しないから。すごいじゃないですか。
だからね、僕は息がね、一番いい先生だと思うんですよ。
息が、先生。息は、何かを教えてくれるものなのか。そう問い返したくなる言い方です。
けれども、ほかの回の録音と並べると、老師が息から何を学んでいるのかが見えてきます。私の読みでは、三つあります。
一つ目——働いて、何も要求しない
冬の接心の提唱で、老師はこう話しています。接心とは、数日間こもって集中的に坐る修行のことです。
本当にね、もう息こそ生まれた時から死ぬ数秒まで皆さん方を生かしてくれてるんで。生命現象の根源ですよ。しかも何の報酬も。
だから僕、息のような人間になれたら最高だわけです。
生まれてから、ずっと働いている。それでいて、何も要求しない。請求書が一度も来ない。
老師が言っているのは、「息はありがたい」だけではありません。「息のような人間になれたら最高」。息を、自分がなりたい姿として見ています。
二つ目——「俺の息」には、なっていない
別の回で、老師は息の性質をこう説明しています。
これ息をするっていうことはですね、本当に一切の観念がない世界なんですよ。
普通はですよ、いや、俺の息だと、俺の体だと思ってるんで、錯覚なんですよね。
観念とは、ここでは頭の中でつけた考えやラベルのことです。老師は、理由もこう話しています。
じゃあもし本当に俺の息だったらね、息を吸う時に、……吸って、そこから出すんだよって意識するはずなんですよ。
眠っているあいだも、息は続いています。私が回しているわけではない。だから「俺の息」というラベルは、あとから貼ったものだ、という話です。
要するにね、俺だとか相手だとか、神様だとか仏様とか一切の観念がない世界なんですよ。
最初の回の「個性がない」も、同じことを指していると私は読みました。息には、誰の息という名札がついていません。
図1 息が教えてくれる、三つのこと——要求しない、名札がない、一呼吸ごとに新しい
三つ目——人の命は、一呼吸の間
もう一つ、老師が「よく言う」と前置きして話した問答があります。お釈迦様と弟子のやりとりとして紹介されたものです。
お釈迦様がね、あの、お弟子にね、人の命の長さはどのくらいかって聞いたんです。そしたらね、世尊よ、人の命の長さは一呼吸の間でござる。
老師は、これをこう言い換えています。
息を吸った時はこの世に生まれておめでとうなんですよ。息を吐いた時はあの世に行ってご愁傷様。
この話は、坐禅会では、ものも人も一瞬ごとに変わっている、という説明の中で出てきました。昨日の自分と、今の自分は同じではない。一呼吸ごとに、新しく始まっている。
息は、同じものを二度くり返しません。固定した「俺」が、どこにもない。二つ目の話と、ここでつながると私は読みました。
私の場合——止まって初めて分かるもの
息は、意識しなくても続きます。だから、ありがたさにも気づきにくい。
私にも、あって当たり前だと思っていたのに、止まって初めて価値が分かったものがあります。ジャンルでいえば、家族や健康といった身の回りのことです。中身は、ここには書きません。
老師の話に当てはめると、一つ見えてくることがあります。当たり前に続いているものは、請求してこない。だから、気づくのはたいてい止まったときになる。
息を「先生」と呼ぶのは、止まる前に気づくための練習なのかもしれない、と私は読みました。
図2 当たり前に続くものに、いつ気づくか——止まってからではなく、続いているうちに
経営に置き換えると
会社にも、息に似た働きがあると思います。
毎日当たり前に回っていて、誰も意識しない。うまくいっているあいだは、名前もつかない。それでいて、止まった瞬間に全員が困る。
老師の「息のような人間になれたら最高」を、私は経営者への問いとしても読みました。働いて、請求しない。自分の名札を、あとから貼らない。それができているか、という問いです。
答えを出す問いではなく、持っておく問いだと私は考えます。
「呼吸法でうまくいく」という話ではありません
誤解されやすい点が、二つあります。
一つ目。呼吸を整えれば成果が出る、というテクニックの話ではありません。老師が言っているのは、息の性質から学ぶ、ということです。息を道具にする話ではなく、息を先生にする話です。
二つ目。「報酬を求めずに働け」と人に求める話でもありません。「息のような人間になれたら最高」は、老師自身の願いとして語られています。自分に向ける言葉で、人に向ける言葉ではないと私は読みました。
まとめ——息を、先生にする
- 息は、生まれてからずっと働いて、何も要求しない。老師はそれを「一番いい先生」と呼んだ
- 息には、名札がない。「俺の息」は、あとから貼ったラベルだという
- 人の命は、一呼吸の間。一呼吸ごとに新しく始まっていて、固定した「俺」はない
心を高める、経営を伸ばす。請求しない働きに気づけるかどうかは、心の側の話であり、経営の側の話でもあると、この言葉を読み直して思いました。
「通る」ことと「分かる」ことは、どう違うのか。次回は、老師自身の修行の話から考えます。
明日、一つだけやってみる
明日、仕事を始める前に一度だけ、自分の呼吸に気づいてみてください。請求してこない働きに目を向けるところから始めてください。
よくある質問
Q. 坐禅の数息観と、どう関係しますか。
数息観とは、呼吸を一つずつ数える、坐禅の基本のやり方です。やり方は以前の記事に書きました。今回書いたのは、なぜ呼吸に合わせるのかという、老師の答えのほうです。
Q. 「一呼吸の間」は、死を意識しろという意味ですか。
坐禅会では、ものも人も一瞬ごとに変わっている、という説明の中で出てきた話です。この記事では、一呼吸ごとに新しく始まっているという見方として受け取りました。死生観には立ち入っていません。
Q. 宗教的な話として受け取るべきですか。
老師は仏教の言葉で話していますが、この記事が借りたのは、当たり前に続いているものは請求してこないという見方です。用語を外しても、見方は残ります。
出典
- 坐禅会(2017年11月)の録音記録。「息ってやつはさ……死ぬ寸前までするんですよ」「呼吸っていうのは結局自分といつも一緒なんだよね……この個性がないんですよね」「一生懸命働いてくれてですね、それで要求しないから」「僕は息がね、一番いい先生だと思うんですよ」は老師の発言(録音の14:59〜16:24前後)
- 坐禅会 冬の接心(2018年2月)の提唱の録音記録。「息こそ生まれた時から……しかも何の報酬も」「息のような人間になれたら最高だわけです」は老師の発言(39:28〜40:00前後)
- 坐禅会(2016年8月)の録音記録。「一切の観念がない世界なんですよ」「俺の息だと、俺の体だと思ってるんで、錯覚なんですよね」などは老師の発言(53:47〜55:27前後)。同じ日の録音の前半は講話ではないため、本記事では使っていない
- 坐禅会(2017年4月)の録音記録。「人の命の長さは一呼吸の間でござる」の問答は、お釈迦様と弟子のやりとりとして老師が紹介したもの(18:11〜18:52前後)。出典の経典名は録音で語られていないため記していない
- 引用は録音の文字起こしから。言いよどみや、意味が取れない部分は「……」で省いた
- 「接心」「観念」「数息観」の説明は、筆者の補足です
- 身の回りのことについての記述は筆者自身のもので、ジャンルのみを記しています
- 本文中に坐禅会の関係者・老師のお名前は記載していません
- 本記事は坐禅会の録音のみを素材としており、書籍は使用していません
- 本記事は特定の宗教を評価・推奨するものではありません
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