形式を整えても、動かない場がある
前回、『稲盛流コンパ』を手がかりに「場は設計するものだ」という話を書いた。全員参加、テーマ、時間割と座席表、手酌はご法度、そして総括。本音は待っていても出てこないから、出るように設計する。その七つの奥義を追った。
ただ、あの記事の終盤で触れたレッグスの内川社長の話が、どうしても引っかかったまま残る。形式は整えた。全員参加のコンパも開いた。それでも場は機能しなかった。原因を突き詰めていくと、社員との間に線を引いていたのは、ほかならぬ経営者自身だったという。
設計図どおりに組み立てたのに動かない。この現象は、コンパに限らない。「よし、うちでも読書会を始めよう」と決めた経営者が、三ヶ月後にほぼ確実に突き当たるのが、まったく同じ壁である。
だから今回は、場の外側ではなく、主宰者がどこに座るかという内側の話から始めたい。
続かない場には、三つのかたちがある
社内勉強会が立ち消えになるとき、たいてい次の三つのどれかに当てはまる。
ひとつめは、経営者が「教える側」に座ってしまうこと。 良い本を読んだ。素晴らしい考え方に出会った。これを社員にも伝えたい——動機はまっすぐで、何ひとつ間違っていない。ところが伝えたい気持ちが強いほど、席の位置が変わる。前に立ち、資料を配り、解説を始める。その瞬間、集まった社員は「聞く人」になる。聞く人になった人間は、聞き終われば帰る。翌月も同じことが起きる。場は研修になり、研修は業務になり、業務は忙しくなれば削られる。
ふたつめは、出席することが目的になってしまうこと。 参加者は本を持って集まる。感想を順番に言う。「勉強になりました」で終わる。誰も嘘はついていないし、悪意もない。ただ、そこで何かが自分の中で動いた人は一人もいない。翌週にはタイトルすら思い出せない。
みっつめは、主宰者が忙しくなって自然消滅すること。 これがいちばん多い。準備するのは常に一人。読み込むのも、資料をつくるのも、日程を調整するのも同じ人。繁忙期が来れば「今月は見送ろう」となり、二度と再開しない。負荷が一人に寄っている場は、その一人が倒れた瞬間に消える。
三つとも、原因の根は同じところにある。主宰者が「与える側」に立っているという構図である。
図1 研修の場と、同志の場——主宰者の座る位置が、場の性格を決める
稲盛和夫は、どこに座っていたか
ここで思い出したいのが、盛和塾という場である。
三十六年にわたって続き、世界に一万人を超える塾生を持った学びの場。呼び名は「塾長」であり、構造だけを見れば、稲盛さんは間違いなく教える側にいた。経営問答では塾生の質問に答え、時に厳しく叱った。
ところがご本人の言葉を追っていくと、様子が違ってくる。稲盛さんは、自分がフィロソフィを完璧に実行できたためしはない、生涯「門前の小僧」として学びつづけるのだ、という趣旨のことを繰り返し語っている。京セラフィロソフィは、完成した人が未熟な人に授けた教えではない。社長自身がまだ到達していない場所を指し示し、そこへ社員と一緒に向かうための地図だった。
盛和塾の理念は「心を高める、経営を伸ばす」である。この「高める」という動詞は、塾生だけにかかっていたわけではない。塾長もまた、高めつづける側にいた。だからこそ塾生は、教わりに行くのではなく、同じ道を歩く仲間として通いつづけたのだと思う。
このサイトが「塾長でも師匠でもなく、共に学び伴走する同志である」と最初に定めているのは、この構造をそのまま借りているからだ。そして自社に学びの場をつくるときにも、借りるべきはコンパの形式でも塾のカリキュラムでもなく、まずこの座り方である。
「読む会」ではなく、「出す会」にする
とはいえ、座り方は心構えだけでは維持できない。主宰者が輪の中に座りつづけるには、仕掛けがいる。
私自身が受講者として体験してきた読書会には、その仕掛けがはっきりとあった。一冊の課題図書を数回に分けて読み、各回に宿題が課される。感想文ではない。読んだ内容を自分の言葉に置き換え、自分の仕事に引き寄せて書く。書いたものは提出し、場で扱われる。
この「出す前提」があると、本の読み方そのものが変わる。
宿題のない読書は、わかったつもりのまま通過できてしまう。線を引いた箇所に頷き、良い言葉だと感じ、そのまま閉じる。ところが「これを自分の言葉で書き、人前に置く」と決まっている状態で読むと、頷けない場所が浮かび上がってくる。自分が本当は理解していない箇所、都合よく読み飛ばしていた箇所が、書こうとした瞬間に露出する。菜根譚を読んだときの経験でいえば、線を引くのは簡単だったが、では自分の会社のどの判断がその条に当たるのかと問われると、手が止まった。あの止まった時間こそが、読書会でいちばん学んだ時間だった。
しかも、宿題を出すのは参加者だけではない。主宰者も同じ宿題を書き、同じように場に置く。これが決定的に効く。主宰者が答えを持って現れるのではなく、自分の未熟な答えを最初に晒す。すると場の空気が変わる。「完成した答えを言わなくていい場所なのだ」ということが、説明ではなく実演で伝わる。
社内で始めるときも同じである。集めて読ませるのではなく、全員が何かを出す。出すものは長くなくていい。A4一枚で足りる。重要なのは分量ではなく、出す側に全員が立つという構造のほうだ。
図2 続く場の最小設計図——五つの決めごとで、場は一人の熱意に依存しなくなる
⑤の「期を切る」は見落とされやすいが、効き目が大きい。終わりのない会は、始めるときの心理的な負担が重い。いつまで続くのかわからないものに、人は乗りにくい。全六回で一度完結すると決めておけば、参加のハードルは下がり、主宰者も六回分だけ準備すればよくなる。そして六回を走りきったという事実が、次の期を立てる根拠になる。
主宰者が、場を壊してしまう三つの瞬間
設計が正しくても、進行の途中で主宰者が場を壊してしまうことがある。だいたい三つの瞬間に起きる。
答えを言ってしまう瞬間。 参加者の発言が的を外れていると感じたとき、つい正しい解釈を示したくなる。一度これをやると、参加者は「正解があるらしい」と学習する。以後、自分の答えではなく、正解らしきものを探して発言するようになる。
評価してしまう瞬間。 「いい意見だね」と褒めるのも、実は同じ構造である。褒める人は、評価する位置に立っている。評価する位置は、輪の中ではなく前である。褒めた瞬間に、席が戻ってしまう。
沈黙を埋めてしまう瞬間。 誰も口を開かない時間が三十秒も続くと、主宰者は不安になって喋りはじめる。しかしその沈黙は、たいてい誰かが自分の言葉を探している時間である。埋めてしまえば、探しかけた言葉は永遠に出てこない。
図3 主宰者の三つの座り方——「共に出す」だけが場を長生きさせる
三つめの座り方を保つのは、実のところ最も難しい。主宰者は経営者であり、社内で最も答えを持っていると見なされている人だからだ。その人が「自分もまだわかっていない」と口に出すには、それなりの覚悟がいる。
けれども順序を思い出したい。心を高めることが先にあり、経営が伸びるのは結果である。学びの場も同じで、社員を変えるために場をつくるのではない。主宰者自身が高めつづけるための場をつくった結果として、周りが動きはじめる。 内側が先、外側は後。この順序を逆にした場は、どれだけ形式を整えても機能しない。内川社長が突き当たったのも、結局はこの順序だったのだと思う。
まとめ——始める前に決めておくこと
- 場が続かない原因は、たいてい主宰者が「教える側」に座っていることにある
- 稲盛さんは塾長でありながら、自らを門前の小僧と呼び、共に高める側にいた
- 集めて読ませる「読む会」ではなく、全員が何かを出す「出す会」にする
- 主宰者も同じ宿題を書き、最初に自分の未熟な答えを晒す
- 一冊・少人数・月1回・期を切る。終わりを決めておくから、始められる
- 答えを言わない、評価しない、沈黙を埋めない
もっとも、ここまでは「出す」側の話である。場が動きはじめると、次に主宰者が問われるのは聴く力のほうだ。相手の言葉を最後まで受け取れているか。自分の解釈で相手の話を上書きしていないか。浸透は語るだけでは完成しない。次は、対話と傾聴の技術を扱う。
よくある質問
Q. 少人数の会社でも読書会はできますか。
できる。4〜8人で組むのが目安で、少ないと沈み、多いと発言しない人が出る。月1回・90分に固定し、全6回で期を切る。宿題はA4一枚でよいから、負担も先が見通せる。
Q. 主宰者は本の内容を教えられるほど詳しくなくてもよいですか。
むしろ教えないことが要になる。主宰者も参加者と同じ宿題を書き、自分の未熟な答えを最初に晒す。完成した答えを言わなくていい場所だということが、説明ではなく実演で伝わる。稲盛さんも塾長でありながら、自らを門前の小僧と呼び、共に高める側にいた。
Q. 参加者の発言が的外れなとき、どう対応すればよいですか。
答えを言わない、評価しない、沈黙を埋めない。正解を示せば正解探しが始まり、褒めれば評価する席に戻ってしまう。沈黙はたいてい誰かが自分の言葉を探している時間なので、埋めずに待つ。
