哲学04で、スピノザのコナトゥスを取り上げました。人はもともと「自分であり続けようとする力」を持っていて、去年の自分を続けていくことが、そのまま新しい自分になっていく——そういう話でした。
ただ、そこには一つ前提があります。去年の自分が、どこを歩いてきたのかを、自分で知っていることです。
また、温故知新01では「最新技術を入れるほど、会社は似てくる」という逆説を扱いました。差は自分と自社の歴史——二層の故きのうちの第二層——から生まれる、という話でした。では、その第二層を実際に掘ると何が起きるのか。本稿は、その体験談でもあります。
これが、案外できていません。私自身がそうでした。今回は、経営者が自分と自社の来た道を振り返るとはどういうことか、そして振り返りが、なぜ未来の道しるべになるのかを考えてみたいと思います。
目の前にあったのに、見ていなかった
数年前、ある学びの場で「自分史を書く」という課題を出されました。生まれてから今日までを年表にして、節目を書き出し、そこから何が言えるかをまとめる。半年近くかかる課題です。
ルーツを確かめようと思い、先祖代々の墓を見に行きました。そこで、墓石に刻まれた施主の名前を、生まれて初めて「読んだ」のです。三代前まで、名前が並んでいました。子どものころから何度も前に立っていた石です。文字は最初からそこにありました。ただ、私が見ていなかった。
正直、少しぞっとしました。目の前にある事実ですら、こんなに見ていない。だとしたら、自社の数字も、社員の様子も、お客様の変化も、同じように「見ているつもり」で見ていないのではないか。
振り返りの第一の効用は、ここにあります。過去を美化することでも、反省することでもなく、まず「見ていなかったものが、そこにあった」と気づくことです。
事実は変わらない。意味は変わる
私は大学受験に一度失敗しています。当時は当然、失敗でした。同級生は次の場所へ進み、自分だけ足踏みをしている。焦りもありました。
ところが年表に書き出してみると、その一年は「人生の充実度」がはっきり上がっている時期でした。学校の目を気にせず、自分の学び方を一から組み直せた。間違えた問題を直視できていない、という自分の弱点も、このとき初めて見つけました。私にとってあの一年は、失敗ではなく立ち止まって学び方を作り直した時間だった。そう書き換わったのです。
もう一つ。小学一年生のとき、合宿のバスが立ち往生したことがありました。車体の下に木材が挟まり、大人たちが引いても抜けない。私は「のこぎりで切ればいいのでは」と言い、そのとおりにしたらバスは動きました。褒められて、ご褒美をもらった。長いあいだ、それはただの微笑ましい思い出でした。
しかし今の仕事——お客様の課題を、道具(IT)を選んで解く仕事——を並べて眺めたとき、これが原体験だったと分かりました。四十年以上経ってから、意味が確定したわけです。
事実は変えられません。しかし、事実の意味は、今の自分が決めている。過去は固定された石ではなく、こちらの立ち位置によって見え方の変わる風景です。この不思議さを一度体験しておくと、目の前の逆境の受け止め方も変わります。
図1 事実と意味の分離——事実は変えられないが、今の立ち位置から眺め直すことで、事実の意味は書き換わる
足跡は、出来事ではなく「選択」の連なり
年表を書くと、もう一つ見えるものがあります。並んでいるのは出来事ではなく、そのとき自分が何を選んだかの記録だということです。
私の場合、はっきりしたパターンが出ました。三年ほど一つのことに熱中する。飽きてくる。何かの出来事で立ち止まる。一年ほど振り返る。目標を設定し直して、また三年走る。これを社会人になってから、ずっと繰り返していました。しかも、走っている最中は自覚がありません。
これは会社にも同じことが言えます。事業の入れ替わり、人の増減、取引先の変化。一つひとつは偶然の出来事に見えますが、並べてみれば、そこには経営者が下した選択の跡が残っています。「なぜこの事業を続け、あの事業をやめたのか」を年表の上で見ると、決算書には出てこない自社の癖が浮かび上がってきます。
私にも苦い例があります。四十歳を目前にした時期、人を増やして組織化を進めようとして、うまくいきませんでした。当時の私は「権限を現場に委譲する」と説明していました。それらしい言葉です。しかし年表の上で前後を並べてみると、その決断の前に何があり、後に何が起きたかがはっきり見える。要するに私は、自分が現場に出たくなかっただけでした。組織論の言葉で、自分の気持ちを隠していたのです。
これは当時、誰かに指摘されても認めなかったと思います。年表という形で、自分の選択が時系列に並んで初めて、言い逃れができなくなりました。振り返りが厳しいのは、他人の目が入るからではなく、自分の選択が並ぶからです。
易の言葉を借りれば、現実とは、状況の変化に応じた判断の繰り返しでできています。一つの選択が次の現実を連れてくる。知識としては誰でも知っていることですが、自分の年表の上でそれを見ると、腹に落ち方がまるで違います。
図2 選択の癖の循環——出来事ではなく選択を並べると、本人も自覚していなかったパターンが浮かび上がる
語り直しが、未来の道しるべになる
見えたパターンを、自分の言葉で語り直す。これがナラティブです。
大事なのは、良い話にまとめないことです。私が自分史を書き終えて出した結論は、かなり地味なものでした。「これまでは流されながら、なんとなくうまくやってきた」。そして、「この先の二十年は、意図的に生きてみたい」。
この二行は、外から借りてきた目標ではありません。自分の足跡を並べた結果、そうとしか言いようがなかった結論です。だからこそ、判断に迷ったときの物差しになります。未来の指針は、未来を想像して作るのではなく、過去を正確に読んで見つけるほうが強い。
このサイトの土台に「心を高める、経営を伸ばす」という言葉を置いています。心を高めるというと、遠い理想に向かって背伸びをすることのように聞こえますが、入口はもっと手前にあります。自分が実際に何を選び、何から逃げてきたかを、脚色せずに見ること。そこからしか始まりません。
図3 語り直しの型——年表→癖→語り直し→物差し。仕上げは他者の前で語ることで、自分では開けられない場所が開く
一人でやらないほうがいい
最後に、実務的な話をひとつ。
自分史を書きながら気づいたのは、節目にはたいてい、良い師や仲間がいたということでした。ものの見方を変えてくれた予備校の先生、仕事の型を教えてくれた上司、値付けを変えろと言ってくれた経営者。自分の力で切り拓いたと思っていた道の要所には、必ず誰かの手がありました。
父が私の今の年齢のころ、「本当に困ると、どこからともなく助けが来るんだよな」と言っていたのを、四十を過ぎてから思い出しました。子どものころは他力本願な言葉だと思っていましたが、今は、これは関係性の話だったのだと分かります。
だから振り返りも、できれば一人でやらないほうがいい。書くだけなら自己満足で終わりますが、人に語ると、必ず「それは本当ですか」と聞かれます。その問いが、自分では触れなかった場所を開けてくれます。
まとめ
- 振り返りの第一歩は、反省ではなく「見ていなかった事実」に気づくこと
- 事実は変わらないが、事実の意味は、今の自分の立ち位置で変わる
- 年表に並ぶのは出来事ではなく「選択」。個人にも会社にも、必ず癖がある
- 未来の指針は、未来を想像して作るより、過去を正確に読んで見つけるほうが強い
- 語り直しは、他者の前で行うと効く
次回は、この考え方を私自身に当てはめた実践編です。私の学びの年表——道具で問題を解いた最初の体験から、盛和塾、坐禅会、読書会に至るまでを、そのまま一枚に並べてみます。振り返りの型として、そのまま真似ていただければと思います。
よくある質問
Q1. 過去を振り返っても、事実は変えられないのでは?
事実は変えられません。しかし、事実の意味は今の自分の立ち位置で変わります。大学受験に失敗した一年も、年表に並べて眺め直すと「立ち止まって学び方を作り直した時間」に書き換わりました。この書き換えを一度体験しておくと、目の前の逆境の受け止め方も変わります。
Q2. 会社の振り返りは、何から始めればよいですか?
出来事ではなく「選択」を年表に並べることからです。「なぜこの事業を続け、あの事業をやめたのか」を時系列で見ると、決算書には出てこない自社の癖が浮かび上がります。個人にも会社にも、本人が自覚していない選択のパターンが必ずあります。
Q3. 自分史や振り返りは、一人でやってもよいですか?
できれば一人でやらないほうがいいです。書くだけなら自己満足で終わりますが、人に語ると必ず「それは本当ですか」と問われます。その問いが、自分では触れなかった場所を開けてくれます。
