100を知って、1を語る——深さは生き様から来る

前回は、自分に合う「水」は実験でしか見つからない、という話で終わりました(哲学04)。後半生は、その実験を意図的にやる季節だ、とも書きました。

では、実験を重ねた先に、何が残るのでしょうか。残るのは、知識の量ではないと思います。残るのは、深さです。今回は、その深さがどこから来るのかを考えます。

目次

同じ「1」に、深さの差が出る

私が長く手放せずにいる考えがあります。

1を語るときに、3を知って語るのと、10を知って語るのとでは、出てくる言葉が違う。100を知って語れば、また違う。表面的には、同じ1に見えます。それでも、深さが違うのです。

聞き手は、その差をうまく説明できません。けれども、確実に感じ取ります。話が終わったあとに残る手応えが、まるで違うからです。

では、その深さはどこから来るのでしょうか。

知識の量だけなら、調べれば誰でも増やせます。今は問いを投げれば、100どころか1000の情報が返る時代です。それでも差が出るのは、深さが量から来ていないからです。

深さを出すためには、内面を掘り下げる必要があります。そして内面とは、その人の生き様のことです。生き様は、同じものを二人が持つことはありえません。

深さの正体は、この一回性にあります。

同じ「1」でも、深さが違う 見える線 語られた「1」 語られた「1」 語られた「1」 3を知っている 10を知っている 100を知っている 内面/生き様 水面から上は同じ大きさに見える。差は、下にある。 深さは、知識の量ではなく、内面の掘り下げから来る 内面=生き様。同じものを二人が持つことはありえない。 深さの正体は、この一回性にある。

図1 深さの断面——同じ「1」に見えても、水面下の量が違う

生々の道——隔たりはないのに、厚薄がある

「真剣に、本を読む会」の第11回で、佐藤一斎『言志四録』の言志録16条を読みました。資料では「生々の道」と題されています。岡本先生が、読書会でそう言い換えたものです。

資料には、三行が並んでいました。

  • 天は人に対して隔たりがない
  • 人はその持っている素質によって、天から受けるものに厚薄がある
  • 植物も人間も栄華盛衰の理は一緒

隔たりがないのに、厚薄がある。読み方によっては、矛盾しています。

読書会では、この矛盾をこのまま捉えることが重要だ、と語られていました。古典は毎回、矛盾したことを言ってくる。それが大人の道である、と。

みんな平等に生々していく。けれども、その生々が始まる前にもらってきたものには、強弱がある。厚薄とは、そういうことです。人間だって自然であり、植物と何も変わらない——そういう話でした。

同じ回で、『易経』繋辞上伝の二句も引かれています。

  • 盛徳大業至れるかな、富有これを大業と謂い、日新これを盛徳と謂う
  • 生々之を易という

大きな徳は、日々新しくなることから来る。読書会では、粛々と進むものそのものが盛徳である、と語られていました。そして、その粛々と進むそのものが易なのだ、と。

生々とは、少しずつ少しずつ伸びていくこと。めぐりめぐる様、流れる様のことです。

つまり、深さは一夜では出ません。厚薄のある素質を抱えたまま、日々を粛々と進むところにしか出ないのです。

補助線としての、文学と心理学

内面を掘り下げるとき、哲学や心理学は補助線になります。同じ第11回では、二つの補助線が引かれました。

一つは、文学です。司馬遼太郎の二作から、こんな一行が引かれています。

  • 「人間は、運という点ですこし植物に似ているかもしれない」(『菜の花の沖』)
  • 「人間というものは、柿の木のように移し替えがむずかしいものだ」(『胡蝶の夢』)

岡本先生は、これを司馬遼太郎が歴史小説を書き続けるときの底流に常にあった考え方とみています。ただし、そんなことは誰も言っていない、と自分の見立てであることを断ったうえでの話でした。読書会では、柿の木は移し替えられるが人間は無理だ、とまで語られています。

もう一つは、心理学です。資料には『どんぐり理論』ジェイムズ・ヒルマンとして、二行が引かれていました(『映像で考えるセミナー第4回(2019年)』資料より、との注記があります)。

  • 一人一人の人間は生きることを要請されている個性、また人生の中で実現される前からすでに存在している個性をもっている
  • 幼いころ熱中していたことは、大きく現在の行動を先取りしている

読書会では、二行目について、これは超重要だ、と念を押されていました。

文学と心理学が、同じことを別の言葉で言っています。人は植物に似ていて、移し替えが難しく、種はすでに植え付けられている。

ここが大事なところです。読書会では、中庸の世界はこれをとっくに超越している、と語られました。ヒルマンが理論として発見し、司馬遼太郎が小説を書いて気づいたこと。中庸には、それがすでに書いてあり、むしろその先が書かれている、というのです。

補助線は、あくまで補助線です。それでも、古典の一行が腹に落ちないとき、補助線のほうが先に通じることがあります。私にとっての哲学や心理学は、そういう役割でした。

さすらう、そして回帰する

では、自分の種はどうすれば分かるのでしょうか。

私の答えは、さすらう、です。

さすらうというのは、自分の興味に応じて、流されるように、いろいろやってみることです。計画的でも戦略的でもありません。面白そうだから手を出す。それだけです。

前回の言葉で言えば、これは実験にあたります。

ただし、さすらいは終点ではありません。岡本先生は、ある年の年末の資料に「さりげない転換点」という見出しを立て、その下にこう書いています。「さすらい」から「回帰」へ。

資料に説明はありません。この一行だけです。

それでも、順序ははっきりしています。まずさすらう段階があり、そこから回帰へ転じる。しかも転換点は、さりげない。派手な決意の瞬間ではないのです。

私が思うのは、こういうことです。興味に流されて手を出したものの中に、すでに種が出ている。

どんぐり理論の二行目が、そのまま効いてきます。幼いころ熱中していたことは、現在の行動を先取りしている。だとすれば、さすらいは無駄なさまよいではありません。種が芽を出せる土を、体のほうが先に探している時間です。

読書会の第2シーズンでは、こんな宿題も出されています。

  • 「適所」が先で、「自画像」が後(もちろん、「献身」も後)
  • 「適所」の確認。そして、植え替えができないことを追認しつつ、改めて「自画像」を点検する

ここでも、順序がはっきりしています。自分が何者かを決めてから場所を選ぶのではありません。どこに植えられているかを、先に確認する。そのうえで、植え替えはできないと認める。認めたうえで、自画像のほうを点検し直すのです。

さすらい、さりげない転換点、そして回帰 さすらい 自分の興味に応じて、 流されるように、 いろいろやってみる さりげない転換点 派手な決意の瞬間では ない 回帰 外に型を探すのをやめ、 自己の過去へ戻る (温故知新02へ) 順序の確認——「適所」が先、「自画像」が後 植え替えができないことを追認したうえで、自画像を点検し直す 興味に流されて手を出したものの中に、すでに種が出ている さすらいは無駄なさまよいではない。種が芽を出せる土を、体が先に探している。 幼いころ熱中していたことは、大きく現在の行動を先取りしている(どんぐり理論)

図2 さすらいから回帰へ——転換点はさりげなく、順序は「適所」が先

性・道・教——種を伸ばす順序

同じ第11回の資料に、朱子『中庸章句』の三行があります。

  • 性は人が天からかくあるべしと定められた本質
  • 道はその本質の発動法則
  • 教とは、各人に道を行わせるように、道に度合い形式とを定めること

性は、もらってきた種です。読書会では、我々がもらってきたものがうまく芽が出て、伸びていく法則が道だ、と説明されました。

つまり、伸ばすべきは他人の種ではありません。自分がもらってきた種です。

厚薄はあります。ないほうがいい、とは言いません。けれども、厚薄は選べません。選べるのは、その種を伸ばす道のほうです。

第11回の宿題は、こう問いかけていました。

「あなたは、どのような場所に植えられた、どんな木ですか?」

品種を答える必要はない、と説明されています。誰かに植えられたものと仮定して、どんな場所に埋められた、どんな木か。結構重要な作業になる、とも語られていました。

私は、当時こう書きました。

大きな森の生態系からはずれた場所に植えられた小さな若い木です。同じように外れた場所に生息している植物とともに小さい生態系を作りながら、成長している木です。

今読み返しても、直したいところがありません。

大きな森の中にはいない。外れた場所で、同じように外れた植物と小さな生態系を作っている。これが、私にとっての「適所」の確認でした。

種を伸ばす順序——性・道・教 土壌=植えられた場所(適所) もらってきた種 本質の発動法則 芽を出して伸びる法則 道に度合い形式とを定めること 道に形をあたえるもの 選べないもの 種の厚薄/植えられた場所 選べるもの その種を伸ばす道のほう 伸ばすべきは他人の種ではなく、自分がもらってきた種 「あなたは、どのような場所に植えられた、どんな木ですか?」

図3 性・道・教の構造——選べない厚薄と、選べる道

まとめ——深さは、生き様から来る

  • 同じ「1」でも、3を知って語るのと100を知って語るのとでは深さが違う。差は水面下にあり、聞き手は説明できないまま感じ取る。
  • 深さは知識の量ではなく、内面の掘り下げから来る。内面とは生き様であり、同じものを二人が持つことはありえない。
  • 天は隔たりを設けないが、素質には厚薄がある。矛盾をこのまま捉えることが重要で、生々とは日々を粛々と進むことである。
  • 文学と心理学は補助線になる。人は植物に似て移し替えが難しく、種はすでに植え付けられている。中庸は、その先まで書いている。
  • 種を探す方法は、さすらうこと。興味に流されて手を出したものの中に、すでに種が出ている。そして、さりげない転換点を経て回帰へ向かう。

自分の素質を確かめ、選べない厚薄を引き受けて、選べる道のほうを磨く。この作業は、それ自体が内面を磨く営みです。心を高める、経営を伸ばす(稲盛00)——その「心を高める」側に、まっすぐつながっています。

では、回帰したあと、具体的にどこを掘ればいいのでしょうか。「さすらい」から「回帰」へ、のその後段は、温故知新02に書きました。自分の過去を、どうやって跳躍台に変えるのか。続きは、そちらへどうぞ。

よくある質問

Q1. 「100を知って1を語る」の100とは、どのくらいの量を指すのですか。

具体的な冊数や時間の話ではありません。同じ結論を語るときに、その背後にどれだけの経験と考察が積み上がっているか、という意味です。量そのものより、その積み上げが自分の内面を通っているかどうかが効きます。調べただけの100は、深さになりません。

Q2. 「さすらう」ことと、単なる目移りは違うのですか。

外から見た形は、あまり変わらないかもしれません。違いは、自分の興味に応じて動いているかどうかです。誰かに勧められたから、儲かりそうだからという理由で動くと、種のありかは見えてきません。そして、さすらいには終わりがあります。さりげない転換点を経て、回帰へ向かうところまでが一続きです。

Q3. 自分の「種」は、どうすれば確認できますか。

読書会の宿題が、そのまま入口になります。「あなたは、どのような場所に植えられた、どんな木ですか?」。品種を当てる必要はありません。どんな場所に植えられているのかを先に確認し、植え替えができないことを認めたうえで、自画像のほうを点検し直します。そのうえで過去を掘る方法は、温故知新02にまとめました。

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この記事を書いた人

Takuomi Mochidaのアバター Takuomi Mochida 株式会社ベンチャーネット代表取締役

株式会社ベンチャーネット 代表取締役
2005年に株式会社ベンチャーネットを設立後、SEOをはじめとするデジタルマーケティング領域のコンサルティングサービスを展開
広告・SNS・ウェブ・MA・SFAと一気通貫で支援を行っています
著書に『普通のサラリーマンでもすごいチームと始められる レバレッジ起業 「バーチャル社員」があなたを救う』(KADOKAWA、2020年)

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